ガラテヤ5章

5:1 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

 自由は、律法の奴隷でないという意味での自由です。律法から開放されているので自由なのです。イエス・キリストを信じた者が、律法を行わなければその行いが義とされないという束縛からの開放なのです。

 これは、律法によっては地獄の裁きからは救われず、イエス・キリストに対する信仰によって救われるということを言っているのではありません。

5:2 よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。

 割礼を受けることは、律法を行うことで義とされるすなわち義の実を結ぶという教えに基づきます。その教えに従うことは、信仰により、キリストによって歩むことで義の実を結ぶという真理の教えに背くものであり、キリストは、何の益ももたらさないことになります。

5:3 割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。

 律法によって義とされると考える人は、割礼だけでなく、律法の全体を行う義務があります。そうでなければ、矛盾しています。律法のある箇条については守らなくて良いということにはなりません。自分に都合の良いところだけ守るというのは、律法を犯すことであり、律法によって義とされるという主張と矛盾します。

5:4 律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

 このように、律法によって義と認められようとするならば、キリストを益のないものとみなし、キリストから離れているのです。彼らは、「恵み」から落ちてしまったのです。恵みは、神様が備えた祝福です。信仰によって受け取る時、祝福が実現します。

5:5 私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。

 「義とされる望みの実現」とあり、義について、望みと記されています。これは、いわゆる義とされた立場のことではありません。私たちは、信じたときに義とされているのです。ここでの義は、将来受け継ぐもののことで、信者がなした行いが義と評価され、報いが与えられることです。その人の行いが義とされるかどうかは、誰もわかりません。キリストがその裁きの座で評価されます。

 義とされるのは、信仰によります。これは、律法の行いと対比されています。信仰により、キリストがその人のうちで業をなすと信じるのです。

 その業は、具体的には、御霊によります。もはや肉の行いではないのです。キリストの業は、御霊によって実現します。その行いが義とされるのです。

5:6 キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

 大事なことは、割礼を受けることに代表される律法を行うことではありません。それは、何の益ももたらしません。信仰が大事なのです。愛によって働くと記されていますが、キリストの愛を知ることでキリストを愛するという動機によります。御霊の実こそ義とされるのです。

5:7 あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

 ガラテヤの人たちは、よく走っていました。その意味は、真理に従っていたということです。すなわち、キリストの愛に応え、信仰によって歩んでいました。しかし、それを邪魔する者が現れたのです。

5:8 そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。

 そのような「説得→教え」は、私たちを栄光と栄誉に召している方から出たものではありません。そのような教えに従っていても、栄光と栄誉を受けることはないのです。

ペテロ第二

1:3 私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。

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・「召してくださった」→ずっと召している。アオリスト分詞。召したのは、ご自分の栄光と栄誉へ召している。栄光と栄誉は、与格。すなわち、栄光と栄誉に与るように召していること。

・「説得」→自分から出た「教え」。説得、意見、宗旨。など。ここでは、律法を行うことで義とされるという教理。教え。

・「召された」→「召している」現在進行形。過去形ではない。召しは、栄光に召されることです。

5:9 わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。

 僅かなパン種としての誤った教えは、教会全体に影響を及ぼします。

5:10 あなたがたが別の考えを持つことは決してないと、私は主にあって確信しています。しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、さばきを受けます。

 パウロは、ガラテヤ人を信頼し、彼らが異なった別の考えを持つことはないと確信していると言い表しました。そのことを強く期待したのです。彼らを見捨てるような思いを決して持っていないことを明らかにしました。それが、彼らの心を開くことであり、正しい教えに立ち返らせるためには必要です。

 しかし、彼らを動揺させる者たちは、誰であろうと裁きを受けるのです。

5:11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けているのですか。それを宣べ伝えているなら、十字架のつまずきはなくなっているはずです。

 パウロは、割礼を決して宣べ伝えなかったことを証ししました。彼が迫害を受けていることは、そのことの証明です。

 十字架の躓きとは、御国での報いの獲得は、割礼に代表される律法を行うことにはよらず、律法から開放され、信仰によって生きることで得られることです。律法を守る者たちは、その律法を否定されることが躓きなのです。

5:12 (ああ!)あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除してしまえばよいのです。

 「ああ!」と冒頭で叫んでいます。「切除」すなわち切り捨てるは、未来形中態です。「かき乱す者たち」は、主格です。かき乱す者たちは切り捨てられるでしょう。彼らは、自分自身を切り捨てているのです。これは、割礼が肉を切り捨てることと重ねて、それは、自分を切り捨てることであることを言っています。彼らは、神によって切り捨てられるのです。

5:13 兄弟たち。(なぜならば)あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

 前節の理由として記されています。前節では、かき乱す者たちについて語られています。しかし、そのようなことのために召されたのではないのです。自由を与えられるために召されたのです。

 兄弟として呼びかけました。ここからは勧めです。自由を肉の働く機会としてはならないのです。律法から開放されています。それを自由と言っています。律法の奴隷ではないのです。しかし、その自由を肉の働く機会としてはなりません。愛をもって互いに仕えるのです。 

5:14 (なぜならば)律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

 愛をもって互いに仕えることは、律法全体を全うすることです。

5:15 気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。

→「もし、互いに噛みつきあったり、食い尽くしたりしているならば、互いに使い尽くすすなわち滅ぼされたでしょう。」「食い尽くす」と「滅ぼすすなわち使い尽くす」が、重ね合わされて使われています。

 これは、仮定の警告になっています。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

 御霊によって歩むならば、肉の欲望を満たすことはありません。

 パウロは、今まで御霊によって歩むことには、触れてきませんでした。彼らが肉によって歩んでいたので、彼らの肉に訴えたのです。互いに愛し合うことについても、それは、御霊によってなすことです。しかし、その勧めは、律法を完全に守ることであることとして勧めてます。彼らの状態に応じて、彼らが尊んでいるものを取り上げて勧めたのです。

 ここでは、真の正しい生き方について示しています。これが正しい生き方であるのです。御霊によって歩むことです。そうすれば、肉の欲望を満足させることはありません。

 パウロは、律法を守るろうとすることが、結局は、肉の誇りであることを見抜いていました。そのような肉に歩むのではなく、御霊によって歩むように勧めたのです。

 パウロは、律法を守るなとは言っていません。律法を真の意味で守ることは、御霊の働きです。御霊は、律法の要求を全うします。ガラテヤ人は、律法の規定を守ろうとしていました。しかし、真の意味で律法を守ることは、肉による行動ではなく、御霊によって神の要求を守ることであり、互いに愛し合うことであるのです。

5:17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

 その理由は、肉が望むことと、御霊が望むことは互いに逆らい対立するからです。一方に従っているならば、他方に従うことはないのです。彼らが願っていた律法を行うことは肉の願いです。その肉の願っていることはできなくなります。

 肉に歩もうとすると、御霊が妨げます。御霊に歩もうとすると、肉が妨げます。それで、自分のしたいと思うことができないのです。

 どちらかを殺さなければ、その対立からは、解放されません。

5:18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 御霊に導かれているならば、肉の思いで律法を行うことはできないのです。さらにいうならば、御霊によって歩むことは、律法に対して死んでいることでもあります。

 御霊に導かれるなら、御霊によって生きるのです。律法の下には、いません。律法に生きる生き方から解放されているのです。実は、律法の規定を守るというのは、肉による歩みであって、御霊によらないのです。

5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、

 不品行、汚れ、好色は、自分の身を汚します。

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

 偶像礼拝、魔術は、教えの汚れです。

 敵意、争い、嫉みは、人間関係における汚れです。

 党派心、分裂、分派は、一致に関する罪です。

5:21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

 妬みは、その人の心の内での罪です。酩酊、遊興は、その人単独での行動に現れる罪です。

 ここでは、肉の行いを列挙しています。彼らが律法に歩もうとした時、それはもはや、御霊による歩みではないのです。その時予想される肉による行いを戒めています。肉によるあらゆる行いを列挙し、そのような歩みをしている者が、神の国を相続することは、ないことを警告しました。

 彼らは、律法を行うことで神の国を相続することを求めていました。しかし、その時、彼らは、肉によって歩んでいたのです。ですから、肉の行いが現れるのです。しかし、そのようなことをしていれば、神の国を相続することがないことを警告として戒めたのです。

 「神の国を相続する」ことは、救いの立場を得ることではありません。もし、そうだとしたら、この勧めは、ガラテヤ人に対して記されたものですから、彼らが、このような肉の行いをし続けるならば、彼らが救いの立場を失うことになるということです。そのようなことはないのです。「今もあなたがたに予め言っておきます。」という言葉は、ガラテヤの信者への警告です。

 彼は、すべての肉の行いを列挙しましたが、ガラテヤ人に該当するものもあるのです。敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみなどです。肉によって、正しいことをしようとするなら、誇りにつながるのです。

 信者であってこのようなことを行っている者たちは、神の国を相続できません。神の国を相続するというのは、神の国で報いを相続することです。

 

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

「愛」→原語ではアガペーで、御霊による完全な愛です。これは、御霊によって、信者は、アガペーの愛を現す者になることが示されています。

「喜び」→神の恵みにたいする認識のことです。その喜びは、神様を知り、その恵みを知ることで与えられるものです。

「平安」→平安と訳されている語は、「神の御心を知り行うことでもたらされる神の賜物としての完全さ」です。

 寛容、親切、善意は、他の人に対する関係として出てきます。

「寛容」→怒りを表す前に十分な時間待っていること。

「親切」→人間的な冷たさを避け、必要に応える。

「善意」→本質的なたぐい稀な善。

5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 誠実、柔和、自制は、その人の性質して現れるものです。

「誠実」→信仰。

「柔和」→優しい力。抑制と優しさを持った力。

「自制」→内面から支配された振る舞い。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

 そして、キリスト・イエスに付く者は、自分の肉を十字架につけたのです。キリスト・イエスに付くというのは、キリストと共に歩むことです。御言葉に従って、キリスト共に生きることです。

 十字架は、肉を殺すことを表しています。十字架が比喩として出てくる時、それは、肉の死を意味しています。

マタイ

10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

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 自分の十字架は、自分が背負うべき労苦のことではありません。そうではなく、自分の命を捨てることです。自分の命とは、肉に従って生きる生き方です。その様に自分を捨てないでは、主についていく者として相応しくないのです。

マタイ

16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

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 まことの命は、永遠の報いです。それを得るためには、自分の十字架を負うことであり、自分を捨てることです。それは、肉に死ぬことを表しています。

5:25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 御霊によって生きることが私たちの立場です。そのような者は、実際に御霊に導かれて歩むのがふさわしいのです。

 私たちは、非常に高い身分と高度な歩みができる者とされています。しかし、実際の生活の中でそれを自分のものとしていないことは、宝の持ち腐れです。

5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。

 律法に歩んでいると言っているガラテヤ人の問題点は、これです。彼らは、結局肉を現す者になっていたのです。挑みあい、嫉みあっていたのです。そして、その根本は、自分を現すという肉の思いです。ですから、虚栄が現れるのです。自分をよりよく見せたいという肉の強い思いであるのです。彼らが律法を行っていたのは、結局自分を良く見せたいからなのです。自分は、このように律法に従って歩んでいますという誇りなのです。

 ここに挙げたことは、肉の行いとして列挙した中にも記されています。彼らは、そのような肉の行いがあったのです。彼らの歩みが御霊によらないからです。